祐一も祐無も、お昼はお弁当ではなく学食だった。
 財閥の跡取り息子やご令嬢といえば豪勢な重箱弁当でも持たされていそうなものだが、相沢家は違う。
 その理由は、母である祐子の存在にあった。
 秋子と名雪の生活からも判るとおり、彼女は一般家庭の娘だ。そのため結婚後もそれまでと同じような生活を望み、家には決して使用人の類を  置かなかった。
 しかし零治の妻という立場が忙しいのもまた事実で、毎朝弁当を作るほどの余裕はなく、祐一はこれまで、遠足の日以外ではお弁当というものを 食べたことがない。勿論、祐無も同様である。

「さぁて。背中は任せたわよ、潤!」
「おう、行くぞ祐無!」

 そんなわけで、彼らは俗世間のただ中に居た。通称を学食戦争というこの空間は、餓えた一匹狼や結託した女子グループがおしくらまんじゅうをするところだ。

「ほんと、あの馬鹿はこういうとき頼もしいわね」
「香里、ひどい……」
「まぁ、頼もしいのは確かなんだろうけどな……」

 人ごみの中に突撃していった二人とは別に、香里、名雪、祐一の三人は五人分の席を確保していた。
 二人は勝手に突っ走っていっただけだし、香里の行動も自分の判断だった。この役割分担に関して、彼らは一言も相談をしていない。

「それにしても、どこもこんなものだと思ってはいたが……この学校は特にすごいな」

 祐一が、辺りを見回しながら言う。
 おしくらまんじゅうの現場では、男子が人ごみを掻き分け、女子は寄り集まって身を守りながら、しかし着実な前進を続けている。最前列ではメニューを叫ぶ声に混じって怒号や悲鳴まで飛び交っており、カウンターの向こうではおばちゃんがせわしなく動いている。
 その逆方向では、人ごみに混ざれない女子達が遠巻きにその光景を眺めている。リボンの色は、みんな青色だ。きっと一年の学年色なのだろうと、祐一は納得した。

「ところで相沢君。二人の応援、よろしくね」
「わかった。お〜い! 二人ともがんばれよー!!」

 祐一は叫んだ後で、耳に手を当てて返事を聞くポーズをした。が、そもそも彼の声が二人に聞こえているはずがない。

「祐一、応援ってそういう意味じゃないと思うよ」
「なにぃ!? じゃあ香里は、俺にあの中へ突っ込めというのか!?」
「ええ、そうよ。馬鹿やってないで、私はCランチだって伝えてきて」

 ほら早く、と香里に急かされるが、祐一はまだ自分のメニューが決まっていないし、名雪の注文も聞いていない。
 当然、ちょっと待ってくれと渋ってみせたのだが、香里はさっさとそれを却下した。

「名雪の分も相沢君の分も、祐無に任せておけば大丈夫よ」

 香里の見立てでは、あの二人ならそろそろカウンター付近まで辿り着いているはずなのだ。今までは四人分だったので男手二人(祐無が女だということは途中から知ってたけど)に運ばせていたが、祐一が加わった今では五人分。二人で持てる量ではなくなっている。
 いくらあの二人でも、いつまでもカウンター前で増援を待ち続けることはできやしないだろう。そうなるとタイムリミットは、注文してトレイを受け取った時までになる。もしそれに間に合わなければどうなるか。

(あたし以外の四人分だけを持ってきかねない……!)

 名雪はAランチしか頼まないから聞くまでもないし、祐無は祐一の好みを熟知している。きっと適当に頼むだろう。つまり、その日のメニューを気分で変えるようにしている香里だけが注文してもらえない可能性が高い。
 そんな焦燥感が募った彼女は――

「いいから早く行く!!」

 祐一を突き飛ばした。



 祐一の努力の甲斐もあって、五人は揃って昼食を摂ることができていた。
 直前までは邪魔でしかなかった人ごみも、席に着いた今となってはまったく気にならなくなる。

「そういえば、栞は? 今日は一緒に食べないの?」

 席に着くなり、祐無が香里にそう訊いた。

「ええ、せっかく初日なんだから、新しいクラスの子と仲良くしてみるって言ってたわ」
「……そう」

 それに対して、元々座っていた香里は割り箸を二つに分けながら答える。妹が積極的に友達をつくろうとしていることに喜んでいるのか、その表情は晴れやかだ。
 しかし祐無は逆に、心持ち俯いた表情で自分の箸を割っていた。
 祐一がそんな姉をチラリと一瞥すると、祐無は苦笑で応答した。

(大丈夫か?)
(うーん、そうでもないみたい)

 今の二人のアイコンタクトでは、そんな会話がされていたに違いない。
 やっぱり嫌われちゃったかな、と、祐無は栞との関係を憂えていた。

「なあ相沢、お前今日暇か?」

 その心の機微に気がついたからなのか、潤が明るい声で祐一に話しかけてきた。

「いや、ちょっとした用事があるが……なんだ?」
「そうか。残念だな、祐無ちゃんよりも格ゲー上手いって聞いて、是非ともその腕前を披露して欲しかったんだが」

 朝のやり取りはどこへ行ってしまったのか、潤の祐無の呼び方は、まだ「祐無」か「祐無ちゃん」かで定まっていない。
 だが昼休みになってようやく肩の力が抜けてきているようなので、どうやら「祐無ちゃん」で決定になりそうだ。

「確かにそれは残念だなぁ。俺も久々に、日本(こっち)のゲームをしたいのは山々なんだけど」
「潤くんごめんねー? ちょっと今日は、『相沢祐一』の知り合いに挨拶に行かなきゃいけないから」

 祐無のその一言で、一瞬、場が固まりかけた。

「ふうん? そりゃ、二人とも大変だな」
「それって、やっぱり川澄先輩たち?」
「うん、そうだよ。色々問題はあるかもしれないけど、一つ一つ片付けていかないとね」
「俺はただの付き添い程度だろうけどな」
「……うにゅ、いちご……」

 しかし結局、全員が気にしないことに決めたようで、平然と普段どおりに会話を続けることができていた。
 そこには取り繕おうという態度やぎこちなさが微塵も感じられず、みんなが相沢姉弟のことをありのままに受け入れていることがよくわかる。
 約一名、寝ていたが。

「……うわ、名雪の奴本当に寝ながら動いてるぞ」
「「早く慣れないとやっていけないわよ」」
「……おう」
「頑張れよ、『相沢』……」

 最後に呟いた潤の激励は、二重の意味を持っていた。





 放課後、祐一と祐無は二階建ての貸しアパートへ来ていた。
 家から近いということもあって一度家に帰っており、二人とも私服に着替えている。
 もちろん祐無の服装は女性のもので、上は普通にラフなデザインのトレーナーだったが、下は『らしさ』を強調するためにスカートを履いてきていた。
 そもそもこの訪問の目的は、『今までの』相沢祐一が女性であったことを納得させるためにある。そこへ祐無が男装で登場しては、まず説得力に欠ける。
 今までずっと室内着だけで生きてきた祐無にとってスカートというものはまだ慣れなかったが、そういう目的があったので、今日は多少無理をして履いてきたのだ。

「ね、祐一。私、変なトコロないかな?」
「姉さんって、母さんの子供だよな」
「今は内面が変かどうかなんて聞いてないわよっ!」

 そんな漫才で緊張を解してみせてから、祐無は溜息混じりにインターホンを押した。

(まったく、やっぱり祐一も母さんの子供だよね)
(自分や母さんが変な人だってことは否定しないんだな、姉さん……)

 二人はお互いに失礼なことを考えながら、扉の向こうの返事を待つ。
 ちなみに、二人とも母に対して失礼だとは思っていない。祐子は変であることが当たり前だと認識されているからだ。
 子供達から真に慕われているからこそ、相沢家での母の扱いは酷かった。

『はーい』
「あ、佐祐理さんですか? 相沢です」
『あ、やっぱり祐一さんだったんですねー。今舞がドアを開けますから、少し待っててくださいね』
「はい、わかりました」

 やがて帰ってきた機械越しの声に、祐無は男声で受け答えをした。どうやらドアを開けられるその瞬間まで、自分のことは隠しておくつもりらしい。
 それを悟った祐一は、出て来た人に姿が見られないようにドアの死角へと移動した。

(母さんの血って強いよなぁ……)

 祐無も祐一も、互いの視線を感じて強くそう思った。
 その直後にドアが開いて――

  ガチャッ

「祐一、いらっしゃ……」

  バダンッ!

 すぐにまた閉まった。

「佐祐理、祐一が祐一じゃない」
「ふぇ? 何を言ってるの、舞?」
「わからない。祐一だったのに、祐一じゃなかった」
「え……? 祐一さんじゃなかったの?」
「違う。あれは確かに祐一だった」
「ふぇぇ???」

 困惑した二人の声をドア越しに聞いて、祐無は祐一に親指を立てて見せた。満面の笑顔で。
 逆に祐一は片手で頭を抱えている。

「血は争えないな、姉さん」
「失礼ねっ」

 祐無は一瞬だけ機嫌を悪くしたようだったが、またすぐに笑顔に戻った。悪戯を思いついたときの母親の顔にそっくりだった。

「おーい舞ー? どうしたんだよ、早く開けてくれないか?」

 やっぱりまた祐一の声だった。そんな姉を見て、逞しくなったな、と祐一は思う。

「ほら、祐一さん待ってるよ?」
「でも、あれは祐一じゃない」
「じゃあ、やっぱり別の人なの?」
「違う」
「えーっと……じゃあ、私が開けてみてもいい?」
「うん。……気を付けて」

 扉の向こうの二人は、相変わらず困惑しているようだ。
 今現在に限って言えば、舞の扱いに手馴れているはずの佐祐理でさえ、舞が言っていることを理解できていない。
 自分の目で確かめてみないと埒が明かないとでも思ったのだろう。今度は佐祐理が出てくるようだ。
 祐無はまた例の笑みを浮かべると、再び祐一とアイコンタクトを交わす。祐一も他人のことは言えない。

  ガチャ

「はぁい♪ 祐一さんだよんっ」

 佐祐理よりも先に祐一がドアを開けると、祐無は手を挙げて挨拶した。今回は地声だ。

「はえ〜……。女装ですか? すごいですねー、女の人にしか見えませんよっ」

 口だけはいつもの調子で開きながらも、佐祐理の目は丸く見開かれていた。
 なるほど、と彼女は思う。これなら確かに、先ほどまでの舞の言い分も理解できる。
 祐一だけど、祐一じゃない。佐祐理にもその表現が適切だと思えた。
 『目の前の祐一』からは服装だけを変えたという感じがせず、その微笑みも女の子らしいものになっている。『彼』が見せるわずかな挙動からは、『男の人』というイメージがまったく湧いてこない。
 わかりやすく言えば、雰囲気からして違うのだ。普段の『祐一』からは想像できない『祐一』だった。

「だって本当は女だからね。上がっていい?」
「あ、はい、どうぞ〜。って、ふえええええぇぇっ!!?」

 佐祐理の絶叫を聞いた二人は、視線だけで頷いて微笑んだ。
 なんだかんだで、似た者同士の姉弟である。

「佐祐理さん、ナイスリアクション!!」

 最近の姉さんは母さんの生き写しだな、と祐一は、心の中では溜息を吐いた。